「まち連お宝散策マップ」国道230号の原型「本願寺街道」

お知らせ

簾舞地区まちづくり連合会で作成した「お宝散策マップ」掲載の「お宝」です。

明治政府からの要請を受ける中、明治3(1870)年7月、東本願寺では「新道切開」、「移民奨励」、「教化普及」を目的に伊達村尾去別(現伊達市長和)から壮瞥、定山渓、簾舞(ニセイオマップ)を経由して平岸に至る103㎞に及ぶ「本願寺街道」開削工事に着工しました。そして翌同4年10月には伐木幅5.5m、道幅2.2mの道路を完成させました。そのルートは北海道の名付け親でもある松浦武四郎が豊平川から中山峠、虻田有珠に道を開けば便利になると幕府に進言していたアイヌ道でした。
明治5(1872)年5月、開拓使は札幌本府と定山渓の中間地点にあたる簾舞に休泊所として簾舞通行屋を開設、黒岩清五郎が屋守に任ぜられました。その場所は、現在の簾舞中学校グランドの北東側の現国道230号上です。
なお同年4月1日、開拓使はミソマッフの地名を漢字の「簾舞(みすまい)」とし、呼称するよう達示を出しています。
一方、同6年に札幌と函館を結ぶ馬車通行が可能な札幌本道(現国道36号)が完成。平坦で積雪も少ないために利用者は千歳廻りの札幌本道を選択し、その後、本願寺街道の利用は激減、同17年には通行屋の官営が廃止されました。
ただ同5年、石山地区の硬石山で硬石が発見されて採掘が始まり、軟石も発見され同7年から採掘が開始され、その後、同16年には現藤野のマルセンと呼ばれた野々沢地区に札幌市街地からの入植者があり、集落が形成されていきます。
同19年、馬車が通れるようにする定山渓までの道路改良工事が始まり、その際に東野々沢川から右側の豊平川沿いへ路線が変更され、マルセン坂から簾舞川を渡って花ヶ岡へ上がる道筋となり、通行屋も現在地の市道簾舞中央線(旧国道230号)沿線へ移設しました。
明治27年には洞爺湖畔までの仮定県道虻田街道が馬車道となりました。
昭和28年5月、2級国道230号札幌虻田線となり、支笏、洞爺方面への観光道路としても重要視されるようになりましたが、当時は道幅も狭い上に急カーブも多く「魔の山道」と呼ばれ、空沢、板割沢、中の沢、盤の沢、滝の沢の各河川に係る簾舞の「七曲り」と呼ばれた区間もその難所の一つでした。
そのため同32年から国道の全面改修が開始。国道230号の拡幅整備工事のうち、簾舞での国道拡幅は平成2年の二星岱付近での工事で、道路勾配の軽減とこれに伴う工事で同8年までに完成。同10年からは簾舞地区の板割沢、豊滝地区の中の沢と盤の沢の沢に橋を架け、道路を直線、短絡化させ、同14年度に簾舞地域内の四車線化を完了しました。
その後は小金湯地区の工事が平成27年に完了。豊平峡への定山渓交差点までの定山渓地区拡幅は用地買収やトンネル工事、そして道路線形の確保等に時間が掛かりましたが、令和5年3月に完成。簾舞での工事開始から32年の歳月が流れていました。
なお、国道230号の原型となる本願寺街道の跡は現在、殆ど残っていません。
簾舞地区でも街道の入口となる簾舞団地へ上がる国道脇の道から通称ヘビ坂に至る道、簾舞中学校温室横を通った所に建つ「本願寺街道跡碑」から二星岱麓を迂回するように続く細い山坂道に痕跡が判るのみです。山道を下っていくとやがて簾舞川に架かるにせい橋に繋がります。
このへび坂と二星岱区間の本願寺街道は、旧簾舞通行屋保存会によって管理、保存されています。
北海道道旧道保存会のHP「裏サンドウ喫茶室」にある「旧道ロケーション」図を参照してください。
同地図上の赤の実線部分が、現在復元整備されて歩くことができる部分。点線部は宅地化などにより消滅。
同HPには「北海道旧道保存会メンバーによる旧道歩きの記録です」そして「ここに紹介する旧道等は、実際に歩いたのが2000年から2010にかけてのもので(略)あくまでも当時の記録としてお楽しみください」とあります。
現在、二星岱区間はヒグマ出没により通行禁止状態です。写真は2019年10月です。
簾舞二区・三区町内会        ( Ya記)

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